昭和51年11月28日 特別奉修委員      (末永信太郎)



 今朝の御理解の芯になっとります、晃というですね。日を書いて、光と書く。それは、日を神様のおかげ、光を自分達の信心修行によって頂いた心の光、という風に頂いて、それを一つにした、その晃という字の真意というものがどういうところにあるかということを、まあ、答えが、字引を引いたら出て来るだろうと言うておったら、先ほど高橋さん、あの、字引を引いて下さったら、日の光の音符ということだそうです。
 日の光、ね、音符。楽譜(      )ですね。いわゆる、天地のリズムということです。次に、光り輝くということだそうです。今朝の御理解の、いわゆる答えです。ね。
 言うならば、自分の力だけではどうにも出けない。神様のおかげを頂かなければ、神様のおかげだけでもどうにも出けない。私どもが光を持っとらなければ、その光り輝くようなことになって来ない。それには、日々私どもが言うなら天地のリズムに乗った生き方、道理に合うた生き方を身に着けること以外にはない。
 先のど佐田さんからお届けがあったんですけれども、2~3日前から、近所にもう大変な、もう、それこそ幸せそのものの、お金はあるし、家は立派だし、子供さん方の出来は良いし。もう、それこそ(火の打ち所)のない幸せな一家、まあ、幸福そうに見えるお家なんです。ところが、そこのお家に、もう、しきりに何か、合楽それこそ示現活動にでも行きたい。
 どうか、もうお話がしようごとしようごとしてたまらん。お話するしようがない、糸口がない、あんまり幸せそのものですから。それで、それでも何か心にそうして感じられるそうですから、おかげ頂かんなん。その大変、庭が、そこのお家もきれいでしょうから、合楽の庭が、その(林梅先生)の話から、林梅先生が合楽の庭を作られた。で、その庭見るだけにでもお出でなさいませんかと言うて、そこからお話をさせて頂いたと言うのです。世の中にはそういう人がありますよね、けれども、いかに私は佐田さんの心の中に、天地の一つのリズムの音符というようなものが、音律というものを聞き取る働きを、佐田さんがつけて行かれよるかということが分かりましょう。
 もう、しきりにお導きをしたくて、お導きをしようてたまらない。と言うて、やはり難儀であるとか、困ってあると、そんなら一つと言うて、そのお話もしやすいんですけれども、もう幸せ、それこそ神様のかの字も言えないような状態の方達がやっぱあります。
 そしたら、昨日でしたか。その翌日ですか、2番目の息子さんが、今度は家を建てられて、もうそれこそ見事な家が建って、会社を止められて、そして、(   )に(じんち?)の商売をなさるために、そちらの方へ行かれて、そして帰りにあの、電車から振り落とされて、そして、もうこれで死なんとが不思議と言われるぐらいな大怪我をなさっておられるということです。
 しかし、大難という男がね、しかも、42という普通で言うならば厄年。それに家を建てたからいけなかったのだろう。だからと言うて、まあ、言っておられるそうですけれども。本当に富永先生のことやら、自分方の佐田家は、ご主人のきょうぞうさんの42を境にかえっておかげを頂いておるという生き方を身につけるのが、お道の信心だといったような話をなさったということですが。
 本当にね、あの、神様がもう、働きかけておられるということが分かるですね。もう、その、言うならば前日か、もう2~3日前から、とにかく、それこそ幸せそのものの、神様の、信心のと言うても分かりそうにないような、もうとにかく、あの、まあ、そういう難儀な問題が起きて、それから、今、庭を見に行こうと言うておられたのも、まあ、実際は心が動かなかった。
 けれども、今日また改めて話を聞いたら、どうでもその神様にお願いをして下さい、お参りをさせてもらいますというようなことだったそうですけれども、ね、例えば日の光だけでもいかん、と言うて力を持っとるという光だけじゃいかんことが分かりますよね。ここに、日の光と、あの、言うならば心に持つ、心の光というのが一つになった時に、初めて光り輝くような、いわゆる信心で言う輝くおかげが受けられる。
 それには、どうしても私どもが天地の道理を体得して、本当にそこから天地の道理に合うた生き方をしておると、心の中に天地と共に一つの天地のリズムが聞こえて来るようになる。ね。私は、信心はそこまでどうでも頂かなければいけません。もう、天地のリズムが聞き取れれるようなところまでおかげを頂くと、それこそ日の光の日と光の音符ということ。それを聞いて素晴らしい。
 今朝の御理解の答えがそれなんです。ね。どのようなことが起こって来ても驚いてはならんぞ、と例えば言われてもです、ね、驚かにゃおられんのです。けれども、日頃自分の心の中に光と、日の光との音符が心に頂き感じられて行くようになりますと、ね、日々がこういう間違いのない働きの中にあるんだということを実感して行く。その実感しておる中に、なら、目の真っ黒になるようなことが、例えばよし起こってもです、ね、そういう働きの中に起きて来ることだからと、合掌して受けることも出来るし、それによって、一徳、ひと力受けるぞというような元気な心も、いわゆるファイトが湧いて来るようなおかげが頂かれるわけです。日の、日と光の音符。光り輝くということが、この晃という、その真意だということをさせて頂いて、どうでも一つ、日と光の輝く、それこそ光り輝かんばかりのおかげを、一つ頂きたいですね。どうぞ。